ドイツ語通訳・翻訳 TOMOKO OKAMOTO

タバコ屋の店主

タバコ屋の店主

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オーストリアの作家、ローベルト・ゼーターラーの2013年の作品です。

17歳のフランツはタバコ屋に弟子入りするために、田舎からウィーンに出てきます。そこでタバコ屋の常連である精神分析学者のフロイトに出会い、年齢や階級差を越えた交流が始まります。フランツは恋に落ち、フロイトに助言を求めますが、精神分析学者といえども恋愛についてはまともな助言ができないことを知らされます。そして二人の友情が徐々に深まる中、ナチスドイツがオーストリアを併合すると、フランツの周囲で大事件が起こります。すべてを失ったフランツの唯一の心の支えはフロイトとの友情でした。しかしその友情も歴史の波に翻弄されていくことになるのです。

ナチス統治下で極限状態に生きた人々、彼らの「魂の救済」を描いたすばらしい作品です。ぜひ日本にも紹介したいです!

タバコ屋の店主 (一部試訳:岡本朋子訳)

「ティメルカムの駅で電車に乗り込んだとき、胸が痛かった」フランツは言った。「アネツカが初めて僕の前から姿を消したときには、10人の医者でも癒し切れないほど胸が痛んだ。それでもまだその頃の僕には、自分が進む道とやりたいことが大体見えていた。今はもうほとんど胸は痛まないけれど、その代わりに何もかもがわからなくなってしまった。嵐の中でオールをなくしてさまよっているボートみたいに、あっちへもこっちへもどう仕様もなく揺さぶられている気がするんです」
「あなたはまだいい方です、教授」少しの沈黙の後、フランツは続けた。「あなたは自分が進む道を確実に知っているから」
 フロイトはため息をついた。「少なくとも私は、自分が進むほとんどの道をなんとなく知っている。だがね、我々人間は、自ら知ろうと決断して、道を知ることなどできないのだよ。我々が決断できるのは、道を知ろうと「しない」ことだけだ。我々がこの世に生まれたのは、答えを見つけるためではなく、問いを投げかけるためだ。永遠に明けない闇の中で手探りしているようなものなのだ。かなり運がいいときだけ、小さな光を見つけることができる。多大な勇気か、頑固さか、愚かさのいずれかをもつときだけ、いやそれよりは、そのすべてをもつときだけ、あちらこちらになんらかの道標を自分でつけることができるのだよ!」SaAd6Ugrn4a1MDi1434199523_1434199541
 フロイトは黙り込んで、頭を下げ、窓の外を眺めた。小雨が降り始めていた。マロニエの木が雨に濡れて輝いている。激しくドアを開ける音がして、誰かが何かを叫んでいるのが聞こえる。そしてすぐにまた静かになった。
「このマロニエの木を……」フロイトはつぶやく。「この木が花をつけるのを、もう何年見続けてきたことか……」
「ロンドンにもマロニエの木はありますか、教授?」
「さあ、どうかな」フロイトは肩をすぼめ、フランツを見つめた。フランツは教授の眼鏡のふちに映る自分の姿を見た。骨格が変に歪んだ痩せた小男の姿が見える。すると突然、体をビクッとさせた教授は、葉巻を歯の隙間に差し込み、両拳をソファーにたたきつけて立ち上がると、苛立った様子で、少しふらつきながらしばしその場に立ち尽くした。そして膝の関節をパキパキといわせながら部屋の隅まで歩いていった。教授の頭より少し高いところにメクラグモがいた。
「なぜお前はここにいてもよくって、精神分析学の祖である世界的に有名なこの私が、ここを出ていかなきゃならないんだ!」と教授は吐き捨てると、手を高く伸ばし、クモを拳で追い払おうとした。メクラグモは少し震えると、脚を上げ、また下げて、それ以上は動かなくなった。フロイトはしばらくの間クモを挑発的ににらみつけていた。そして手を下ろすと、黙ったまま葉巻の煙のせいで茶色く変色した壁紙を見つめていた。
「メクラグモもそう楽には生きていないと思いますよ、教授!」フランツは慎重に沈黙を破って言った。するとフロイトはまるでソファーからしばらく離れている間に生まれた得体の知れない生きもの、まったく新しい何者かに出くわしたかのように、フランツを見た。そして、もうやめてくれ、と言わんばかりに、弱々しく震える手を振った。それからほとんど消えかけたホヨ【(訳注/キューバの葉巻、ホヨー・ド・モントレーのこと)】を一服すると、小股歩きでソファーに戻り、大仕事をした後であるかのように、深く腰を下ろした。部屋の中はもう薄暗くなっていた。遠くで雷がとどろき、マロニエの木は狭い中庭で萎縮しているように見えた。家の中はまったく静かで、遠く離れた隣家から鈍い物音がときどき聞こえてくるだけだった。M1PDY9UrhjBda9B1434199424_1434199440
 フランツは隣に座っている教授の軽い咳ばらいと呼吸を感じていた。教授が靴下をはいた両足をこすり合わせる音が聞こえ、そのすぐ後に床がきしみ、葉巻の火がパチパチと音を立てた。するとまた静かになった。
「結局、僕はあなたの本を一冊も買わなかった」フランツが言った。「理由の一つ目は高価だから、二つ目は分厚いから、三つ目はそういったことを学ぶ余裕が僕の頭にはないからです」
「でもあなたの助言を守って、見た夢を紙に書きとめることにしました」とフランツは付け足した。「夢のほとんどは馬鹿げているけれど、面白いものもいくつかはある。面白いといっても笑いたくなるような面白さではなくて、なんだか奇妙な面白さがあるんです。夢がいったいどこから来るのか、僕には見当もつかない。だってあんな奇妙なものが勝手に自分の頭の中で作り出されているなんて僕には想像できないから。教授は、どう思います?」
 フロイトはわけのわからないことをブツブツ言うと、足を延ばした。フランツはクスクスと笑った。「とにかく僕は見た夢を毎日紙きれに書きとめて、それを店のショーウインドーにはりつけているんです。そんなことをして何の意味があるのかは、まだわかりません。つまり僕にとって意味があるのかは、わからないということです。でもタバコ屋としてはいいことをしていると思います。みんな立ち止まって、ショーウインドーに鼻を突き付けて、夜中に僕の頭から生み出されたことを読んでくれるんです。立ち止まる人は、ときどき店の中にも入ってきて、ものを買ってくれます」LyypplIqZ0nq6aQ1434199686_1434199703-1
「具体的に言うと、そういうことです、教授!」フランツは一呼吸おいてからそう言うと、再びクスクスと笑い出さずにはいられなかった。心地よさという温かい波がフランツの体を通り抜けた。同時に目まいもした。でもそれは心地よい目まいだった。古いソファーなんかではなく、もっと古くて、ボロボロで、半分湖に沈み、蒸気船の波にたゆたう南岸の桟橋の上に座っているような感覚。もしかしたらこの感覚はサン・ファン・イ・マルティネス川の太陽が照り付ける岸部で収穫され、女性のしなやかな手で巻かれたホヨのせいかもしれない、とフランツは思った。そしてしばらくの間、柔らかい葉巻の外皮を見つめていた。それとも、これは現実とは思えないほど近くに教授がいるせいなのか。もしかしたら理由はまったく別のところにあるのかもしれない、とフランツは考え直してもみたが、結局この心地よさがどこから来ようが、心地よさが心地よさであることに変わりはないのだった。これ以上考えることなど何もない。風のせいでキラキラ光りながら転がり、四方八方にまき散らされた大きな雨粒の一つひとつが窓ガラスを叩きつけていた。中庭の向こう側に見える窓々には、ぽつぽつと明かりが灯り始めていた。

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